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齋藤健一の人生応援ブログ💙

私の仕事歴②

 さて、で、岐阜県の仕事を辞めた私は、半ば精神病みたいになりながら、神奈川県に帰還しました。帰還兵みたいな感じですね。もうボロボロです。肉体はそのままでも、精神面が駄目でした。

 

 で、暫くしたら、父親が無理矢理私を介護の専門学校に行かせました。またしても、私は介護の仕事なんて何の興味もなかった。いや、父親が行けというので、無理矢理、自分の心を偽って、「私はもしかしたら介護に興味があるかもしれない」なんて思い込んで、いや、思い込むように自分を追い込みました。で、介護の専門学校に行きました。

 

 で、二年後、卒業したけど、介護の方面には進みませんでした。アホらしい。はあ。マジでアホらしい。神奈川在住だったし、実家から近くに住んでいたけど、また一人暮らししており、その費用も両親が出していたので、まあ、岐阜県での学生時代と同じ位の費用が掛かっていたというのに。

 

 まあ、詳しくは私の人生記録を読んでくれ。マジで何度も書きたくねーよ。憂鬱、鬱になっちゃうからね。鬱、鬱、鬱。人間、嫌なことは思い出したくはないから。

 

 で、近所にある中卒でも入れるめっちゃ小さな協力会社に入社しました。まあ、近場に、とあるゴム製品方面の、誰でも知っている巨大な日本企業の工場があったので、そこの中にある、小さな協力会社です。まあ、なので、そこの大企業の正社員はたっぷり給与を貰っていますが、私が正社員として採用されたのは、あくまでも小さな協力会社なのです。吹けば飛ぶような。だから、給与面でも雲泥の差でした。

 

 まあ、なので、私の企業で勤続23年目位の中年の人でも、給与は、土曜日も月の半分は出勤して、早出や残業もしているのに、給与額は、二十万円台半ばか後半位でした。まあ、大体26万円とか27万円位ですかね。そこから色々とまた引かれるのだと思いますが。

 

 う~ん、だから、先が見えるのです。つーか、そもそも、またしても、とりあえず、そこに就職したっつーだけだったのです。父親が、俺が散々金を出してやったのに、介護の方面に行かないのなら、絶対にどこかの正社員になれ!というので、とりあえずそこに正社員として就職しただけで、その仕事がやりたい訳でも何でもありませんでした。ただ、ここなら簡単に採用されるだろうと思ったから面接に行ったら、特に採用試験もなく、その場で採用となったのでした。

 

 まあ、その職場は魅力が無いので、新人君が40人位連続で辞めているとか、なんか、とにかくそんな感じの職場でした。まあ、いくら協力会社とはいえ、もうちょっと、その世界的に有名な巨大企業の方も、協力会社に支払う報酬額を上げた方がいいのではないか?と思うけど、まあ、そんなこと、巨大企業の経営陣が考える訳ないよな。だって、徹底的に下請けへの支払いはカットして利益を生み出す構図なのだから。

 

 で、まあ、勤め始めてから四か月目位のある日、もういい加減辞めたいと思っていたけど言い出せなかったある日、巨大な鉄の筒をワイヤーで釣り上げる時に、釣り上げる担当の人は向こう側で、俺はこっち側で、互いに見えなかった。で、俺の掛け声が悪かったのか、俺の手がまだそこにあるのにワイヤーが引っ張られて、で、あと数センチずれていたら、俺の左手の指がもっていかれていた、という恐怖体験をすることになりました。

 

 まあ、で、もう無理ですと言いました。その日はマジでガタガタ震えていました。で、その日はもう帰っていいよということになったと思います。で、帰宅後、社長にもう無理です、辞めますと伝えました。

 

 まあ、しょうがないじゃん。で、まあ、これ以上、もう辞める身で勤められても、怪我されてもこっちも困るからということで、即日辞められました。

 

 う~ん、つーか、マジで無理なんだよなあ。俺の適正に合っていないんだよな。分かるんだ。なんか、テレビとかでよく見るじゃん、あのでっかい鉄の塊とかがウィンウィンと轟音を立てて動いているような、そんな工場内の仕事。工場内作業といっても、色々な仕事内容があるなれど、そういう機械作業全般、俺は苦手なんだよな。

 

 

 だから、辞めました。もう無理でした。元から、ちゃんと考えずに、自分の適正もよく考えずに、しかも面接に行ったその日に即、採用と言われたので、俺も、もう介護の学校卒業後も仕事が決まらずにいたので、ついつい、そこに即決してしまったのでした。

 

 でも、よくよく考えたら、岐阜県の頃の仕事も同じような仕事で、そっち方面の適正は無いと気付けよ!と思いますが、その頃の自分は気付かないままでした。だから同じ過ちを繰り返してしまったのでした。